Builder’s Voice 工務店・ガラス店の声

ガラスの価値と魅力で空間を豊かに(前編)

大供真一郎(おおとも・しんいちろう)
1963年生まれ。大学では電気工学を専攻、卒業後は大手電気機器メーカーで照明技術の仕事に携わる。2005年、明治時代から関西板ガラス流通の中枢を担ってきた最古参の特約店・卸商であるワイダ(株)4代目社長に就任。バブル崩壊・日米構造協議・ガラス業界の流通改革など未曾有の激動期を乗り越え、2006年には機能ガラスによる生活環境向上の提案を旨とする「リグラス部門」を設置。従来の卸売部門・化成品部門に加え、エンドユーザーへの視点も備えた新たなビジネスの可能性に挑戦し続けている。
照明技術者時代には、横浜のマリンタワーのライトアップをはじめ橋梁・野球場・歴史的建造物・美術館の展示まで数多くの照明設計を担当、照明学会での研究報告も行う。培われたそのデザイン感覚で「豊かな建物空間を生み出す魅力ある素材」としての新しいガラス像をも追求する。


自由放任一転、呼び戻され取締役に。「貸しはがし」で経営者として開眼

本社会議室でお話をうかがった。かたわらでは窓辺に加湿器を置き、結露の実験中。

創業1898年(明治31年)。国内での板ガラスの急速な普及とともに、大阪における板ガラス輸入・販売の先鋒として発展を遂げた老舗卸商の工場では、多様な商品が出荷を待っている。 穏やかで実直な話しぶりの中に、技術畑出身の静かな誇りが漂う。

――4代目として入社されるまでは、ガラスとは縁のないお仕事をされていました。

4人兄弟の一番上でしたが、父からはガラス屋を継げと言われたことはなく、好きなことをやれよと育てられましてね。大学卒業後は東京の会社で照明の計画・設計をやりました。

――お祖父さまのご逝去で、突然呼び戻されたそうですが。

祖父の社葬のときに初めて自分の立場がわかり、ええっという感じでした。その後、周囲から戻るように言われ、ちょっと待て話が違うと(笑)やっぱり、というのはありましたけどね。
当時の経営者は父でしたが、、世代交代を考えていたのと、メーカーや銀行、社内からも事業継承者は決まっていなければと言われていたんだと思います。

父は大変だろうな、というのは確かにありました。断ることもできたかもしれないけど、第三者にバトンタッチして会社がどうにかなるより、継いだ息子の出来が悪くてダメだった方がみんなが納得するのでは、といったことも考えました。

――入社された1994年は、バブルが崩壊してまもない頃。ガラスメーカーの流通改革や、日米構造協議による外国製板ガラスの輸入自由化があり、激動の時期でした。同業者間の価格競争も激しくなる一方だったと聞いています。

戻ってきてお客さま回りをしたときは「えらい時期に息子さん帰っていらしたね」と言われましたよ(笑)
ガラスのことも知らないし、自分から見ればぬるま湯もいいところの社内で衝突したり。それでも一担当として営業に出て、現場にも行っていました。とにかく売上を上げようと新規開拓にもチャレンジして。

ただ、経理にはノータッチでした。父に聞いても「心配せんでそっちの仕事を」。今思えば見せたくなかったんじゃないかな。赤字が続いていましたから。

――97年に取締役に就任され、その後の2002年、メインバンクからの貸しはがしを経験されます。

金曜日の夕方に突然、翌週月曜10時までに赤字解消のための経営計画書を出すように、とのファクスが送られてきたんですよ。二晩徹夜して、とにかく出しました。相手もまさか出してこないだろうと、驚いていたみたいです。

そのとき思ったんですよ。「いくら仕事でがんばっても、お金が回らなければ、ここをしっかりやらないと死ぬんや」って。

――重い言葉です。経営者としての開眼ですね。

当時は未熟で社会経験も足りず、孤立無援でしたが、そんな中で思ったのは「騒いでもそれだけでは会社は変わらない」ということ。だったら少しずつでもやっていって、明日の朝何かひとつでも変えられれば…。できることからやっていくしかない、と考えるようになりました。


流通改革を超え、エコガラスを軸に「新しい在り方の会社」へ

事務所の窓には、すべて内窓が設置されている。 「価格競争は、特に大型店ではない私たちにとって厳しいものでした」長年続いてきた流通システムの変貌と、それによって生じた当時の衝撃を振り返る。 会社の百年史を繰りながらのインタビュー。前社長の編纂した年史は、板硝子流通の歴史を語る上で貴重な記録が多数盛り込まれ、第一級の資料となっている。

――エコガラスを扱い始めたのはいつ頃でしょうか。

入社1年目からエコガラスを、3~4年目くらいでインナーウインドも売り始めていました。新しくて面白い商品と思ったし、メーカーが新しく作ったものをPRするのは代理店の仕事だと思っていました。メーカー向けに「ガラスの提案書」というものを作って提案したこともあります。
リフォーム会社さんとのおつきあいもありましたから、そちらでの仕事が主でしたね。

一般ユーザー向けに動きだしたのは2000年頃。近所のマンションでポスティングをやりました。
その翌年には、会社案内とHP、それから窓のリフォームの提案書づくりを、それまでに施工した写真も載せて。
他に誰もやる人間がいないので、全部自分で作りました。

――それまでのお得意さまは、ガラス販売店さんと建設会社さんですね。

そこでの限界もありました。価格対応がしづらかったり、貸し倒れもありましたから。

いろんな疑問も感じていました。価格競争で、とにかく相手より下げて売らねばならず、価格でしか会社を評価されない状況だったこと。一生懸命汗水たらして現場でおさめても誰にも感謝されない、誰のためにやっているのだろうか、と。
かたや一般のお客さまには割れ替え1枚で喜んでもらえる。フェイスツーフェイスで仕事ができるのは面白いなあと思っていました。

企業は、誰かに必要とされているから存在するわけです。だからメーカーやお客さまから見ての存在価値がないなら、ワイダもなくなった方がいいのでは…そこまで真剣に考えました。

――ガラス業界の流通改革によって、従来の卸商・特約店という在り方からの脱却が求められたと。

そこまで考えた上で、ほかに役立っていく在り方を考えたとき、ひとつの価値として機能ガラスが出てきた。メーカーの工場稼働率に貢献するだけでなく、メーカーの新しい商品を普及させていくことも特約店の役割ではないか、そういう物差しがあってもいいと思ったんです。

そこで、リグラスという新部門を2004年に始めました。


自ら提案・説明・施工。「リグラス=需要創造」の取り組み

メーカー供給のもののほか、化成品を扱う会社らしく、質の高いオリジナルデモ機の制作にも力を入れている。

相談会などのイベントでは、大きなパネルを何枚も展示してエコガラスをPR。

――リグラスとは、そもそもどういった形の業務なのですか。

もともとはメーカーさんによる造語です。機能ガラスによって開口部の性能向上を図るとか、安心安全・快適な暮らし・地球環境に配慮した暮らしへの役立ちなど、単なるガラスのリフォームではなく「価値を売る商売」という感じですね。
会社全体の扱いで見れば機能ガラスは2割くらいですが、利益率でいえばもっと多くなっていく。付加価値をつけやすいところもあります。

――具体的には、どのような売り方を?

需要創造から関わっていく。引き合いがあって動くのではなく、いかにその需要を作っていくか、からやっています。

例えばリフォーム会社さんと組む場合、一緒になって提案し、お客さまのところに行って説明・採寸し、工事もやる形もあるし、マンションでの相談会といったイベントなどでは、チラシ作りから商品選択、価格設定までやることもあります。

――注文が来てからではなく、隠れた需要を掘り起こす…

その通りです。
ガラスのことは自分たちが一番よく知っていますから、商品選択も価格設定も提案も、中心となってやらせてもらっています。他の業者さんとやることもあるし、そのためのサンプルやパネルも作っていますよ。

一緒に仕事をする会社の営業マンを集めて窓やガラスの勉強会をやったり、会議に呼ばれて話をしにいったりもします。
リフォーム会社の営業の人にも、水まわりだけがリフォームではない、窓についても提案しましょうと。やはりガラスについてよく知ってもらうことが必要ですから、こういうことはけっこうやってきましたね。


取材日:2012年12月18日
聞き手:二階幸恵
撮影:中谷正人
ワイダ株式会社
ワイダ株式会社
大阪府松原市
社員数 15名
業務内容/板ガラス・サッシ卸売・工事、化成品加工販売、機能ガラス販売と各種リフォーム工事

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